湯気の向こう

我が家は、どちらかというと「ぽっちゃり系」な体型を遺伝子的に受け継いだようです。
はい、みなさん、そんな感じです。
「これはいかん!」とは思っているのだけど、おいしいものにはどうしても負けてしまいます。
が。最近、膝がまずいことになってきました。

まずいまずいまずい。
本気で挑まなくちゃ。

というわけで、食生活を見直すことに。
かなり前ではあるけど、友人が雑炊ダイエットに挑み、3週間で10キロ体重を落とすことに成功したんです。
雑炊なら、水分多めでカロリー控えめ。何でも煮込むことができます。肉も魚もOKです。これはいい!

ってことで、随分前に買っておいてマトモに見もしなかったレシピ本をめくってみました。

これが、ものすごく深い本だったのです。
もう、読書感想文が書けそうなくらい、生命に対する慈しみがあふれている本でした。
所謂、プロローグ的な前置きに書いてあることが深いのです。
レシピはスープがメインのものです。

そこに書いてあることを抜粋。


「人が生を受け、命を全うするまで、特に終わりを安らかにゆかしめる一助となるのは、おつゆものと、スープであると、確信しております。願わくは、日本の病院食にこの本が貢献しうる日がありますように。」

著者がスープに拘ることになった理由に、父親の介護が大きな理由になったことが書いてありました。病気のために麻痺した体は、”食べる”という生命維持に欠かせない行為にも、大きく影響したそうです。
咀嚼嚥下もままならない身には、サラサラしたスープでは噎せてしまう。噎せてしまえば、そこで食事は終わってしまう。それだけではなく、誤嚥してしまえば、肺炎になるなど、更に危険です。
必要な栄養もカロリーもとれず、これではやはり生命に関わってしまいます。今では簡単にとろみをつけられるものもありますが、この頃はそういった物はなかったのでしょう。

「さらに。離乳食を作る母親がスープの方法を知り、いら立たず、子供の発達を守れますように。」

核家族化が進み、子育てもアドバイスをくれる年長者が近くにおらず、所謂”ワンオペ”育児は、今でこそ大きな話題になることもしばしばです。男性の育休取得も世間では「積極的に取れるように」なんて言われていても、現実は簡単なものではありません。職場の環境によっては、子供を産む立場の女性だって、育休取得が難しいことだってあるんですから。仕事と育児の両立は、口で言うほど簡単ではないんです。夜泣きをすることもあれば、急に熱を出すこともあります。保育園や幼稚園から呼び出されて、駆けつけようにも、それを許さない職種もあります。
イライラしない方がおかしいのです。

そんなとき、自分がちょっと手をかけて作った食事で子供が笑ってくれたなら。
家族が「おいしい」と笑顔で言ってくれたなら。
お母さんの心は、きっと救われます。

「学童、中高生の給食には、安全な農作物、雑魚の出汁、日本大豆のみそで作った味噌汁を実現させたいです。国家予算が動いてもよいほどに、価値あることだと思います。」

学校給食の歴史は意外に古く、その始まりは、山形県鶴岡市の私立忠愛小学校で貧困児童を対象に無料で配られたのが始まりだそうです。明治22年のことでした。当初はおにぎりと漬け物だけ。という簡素なものであったといいます。
それから明治40年には広島で、明治44年には岩手、静岡、岡山で始まるなど、各地の一部で欠食児童対策として広まっていきます。
戦時中には食糧事情の悪化で中断されることもありました。
戦後は栄養失調からくる子供の疾病率を減らすことを目的に、アメリカを始め海外からの食料支援を受け、再開。昭和27年には食糧事情も改善され、全国を対象に完全給食が可能に。学校給食法が制定され、この頃から給食の目的は「食育」へと変わっていきました。
今では海外の家庭料理やアレルギーにも対応して、日本の給食は世界でも注目されるほどです。

私が思うに、国力というものは、その国の教育水準が大きく関わっていると思うのです。
その教育水準に給食も関係しているのだと、この本を見ていて感じました。

締めくくりは

「最も切なる願いはーーーーー
家庭生活の愛と平和を、おつゆもの、スープが、何気なく、あたたかく、守り育ててくれますように。スープは家庭生活のとりでであるとさえ思います。

人の生命のゆきつくところは
愛し愛され、一つになることを願い
それをあらわさずにはおられぬ仕組みを
生きるところにあると思います

人間の尊厳も自由も
互いに愛惜せねばならぬ根源も
ここに見いだされてなりません

これが、スープの湯気の向こうに見える実存的使命です。」

どうですか。深いでしょ?

大昔、うちの子供たちが中学生だったかな?
近所の子供(男の子)が我が家に遊びに来たことがあっったのです。
娘がちょっとトイレに立ったときに、しみじみと言った一言が忘れられません。
「いいなぁ、○○家(我が家のこと)はさ、団欒があって」って。
彼の家は共働き。でも、子供だけで留守番させるようなことは極力しない、させない家です。でも、よくよく聞くと、一家で一緒に食事をすることは減ってきているようでした。それでも、子供が食事をするときには、自分は食べなくても、一緒に食卓に着き、語らいを忘れないご両親なのです。それでも、子供はこんな風に思ってしまうのですね。
子供が大きくなると、いろいろ自分でできるようになって、親が手をかけてやる場面は減りますね。空き時間でお仕事を始める方もいるでしょう。
子供はそんな親の姿を見て、たくさんのことを学んでいきます。時にはぼろ雑巾のように疲れ切った親を見て「カッコ悪い」と思うこともあるでしょうが、その姿を見て、働くことで何を守ってるのかを、いつかは知ってほしい、と思います。


子供のことをあれこれと書きましたが、この南住吉町内会の子供たちのことを、かわいそうに思うことがあります。
それは、公園がないこと。
町内に学校はあるけれど、平日の昼間は入れません。土日は野球やサッカーをする小学生がいます。校庭の真ん中を思いっきり走り回ることはできません。
就学前、特に、保育園や幼稚園に行き始める前の小さな子供たちが遊べる場所がない。。。いえ、全くないわけではないのですが、隣近所に気兼ねすることなく、大声で笑ったり、思いっきり走り回れるような、広い場所がない。小さな子供の足でも歩いて行ける距離に、そうした公園があってほしいな。と、孫を持つ身になって改めて思うのです。

近頃では、子供の声がうるさいと、保育園や幼稚園に苦情が絶えないと聞きます。
でも、自分が子供だった頃を思い出してください。
子供なんてね、親や大人に迷惑をかけて成長するんです。それを怒られて、窘められて、時には友達と喧嘩をして、周囲に揉まれて。そうして社会性を身につけていくんです。
私たち大人は、それを「迷惑」の一言で片づけるんじゃなく、子供に「諭して」いけるくらいでなければいけない。実は私たち大人の方が、忍耐力と寛容さを求められてるんじゃないかとも思います。


いろいろ、つらつらと書きました。
ながーいブログに付き合ってくれて、ありがとうございます。
スープからここまで書けるとは、自分の文章力に拍手を送りたい(自画自賛)

新型コロナウィルスがすごい勢いで流行しています。とうとうこの所沢市にも上陸しましたね。
しかも渡航歴もなければ、近所のスーパーに買い物に行くだけ、という行動範囲。
それだけでも感染しちゃうなんて。。。
今日は小学校の卒業式なのに、コロナウィルスのおかげで卒業生と教職員のみの卒業式になってしまいました。
保護者も出席できないなんて。。。
きっと、席も隣とは間隔があいていて、スッキリしすぎなくらいなんでしょうね。。。
もちろん、かからないように心がける必要もあるけれど、ここまでくると、いつ感染してもおかしくないですよね。
手洗いはウィルス感染を避けるためにも心がけなければならない習慣の一つ。
ウィルスに負けないように基礎体力を身につけて、なんとか乗り切りましょう。